虚無世界と虚偽世界 比喩 籠の中の鳥と幸福 認識の生 自己破壊 『 』 ?

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 虚無世界と虚偽世界

私は「社会生活」をしながら「固定概念」を疑う

最近、私は「籠の中の鳥」であることを強烈に意識した

そして、人は人を殺してもいいは表現するべきではない...伝えることができない...「 」だと...

いや、伝えることはできるが、私の精神的にあのときに人は人を殺してもいいを書くことは矛盾?していたのだ

 

絶望を感じ、見続けた鳥に「籠」は見える

「籠」があることを知る

そして、世界の存在を知ろうとする

おかしなことに「籠」の存在を意識しない鳥は鳥ではないと私は今まで言ってきた

存在意義があるのかどうかわからない...そのことを自覚したところでどうにもならない

どうにもならないことを知っていたが、それでも...

「籠」の存在を意識しなくとも翼を活かし、空を舞うのならば鳥なのだ

我ながら勘違いも甚だしい

 

何のために翼があるのか?

空を意識する私、おそらく飛べてはいない

「籠の中で鳥が飛ぶ」ということは何を意味しているのだろうか?

もし、飛んでいるのなら籠の中であったとしても、そいつは鳥だ

私は飛んでいるのだろうか

空をただ見つめているだけではないだろうか

「籠」を意識しない鳥たちと意識する私

「籠」の存在を知ることは、すなわち絶望?

 

きっと、私は飛んでいない

私は「籠」を意識しすぎた

私は重症を負った鳥のように飛べない

他の鳥たちは飛んでいる

「籠」の存在を知らないからだ

「籠」の存在を知ったとしても、軽傷で済ましている

 

私は今、幸せなのだろうか

それを日々問い続ける人間は重傷

私は飛べていない

私は重傷のまま飛べないでいることを望んでいる?

それとも、そもそも重傷ではなく「籠」があることを知り諦めているだけなのか?

負けるなら、負け続けよう...という考えなのだろうか?

 

私は「籠」の中の世界に裏切られた、そして空を見つめ、「籠」の外を考えようとする...

認めたくはないけど、これが今の私だ

 

「籠」を意識することと飛ぶことは両立しえない

客観的?にみて籠の外に出ることは不可能だ

私は「籠」の中にいながら、「籠」の中にいる鳥に向かって、「貴様らは所詮、籠の中のにいる鳥に過ぎない」と言っているだけだった

なんて虚しいのだろう

「籠」の存在を知っていることに一体どれだけの価値がある?

「籠」の存在を表現したら、途端に自分が下らなく思えてしまうのはなぜだろう?

知っているからといって、高尚な気分になってはいけない

本当に馬鹿みたいだ

 

「優劣」はたしかに籠の中の基準でしかない

だけど、その他の基準があると...いや、そもそも基準なんてものは本来ないということを指摘してはいけない

「優劣」は厳然として存在する

「優劣」を意識したとき、私はどうなのか

意識した時点で、私は刃物を突き付けられたような恐怖がある

「優劣を気にしない」これは現実逃避になってしまうのか

おそらく、なってしまうのだろう?

「気にしない」ということを忘却し...ということを忘却し...ということを忘却し...というときに「 」.......『 』

「幸福」がすべて

「幸福」を意識してはならない

「幸福を意識してはならない」ということを忘却し...ということを忘却し...ということを忘却し...ということを「 」.......『 』

世界を身体で理解する

だけど、そのことすら「 」

本当に世界を身体で理解している人間は理解していない

理解しているということに気が付いていない

たとえ、「籠」があったとしても見えないのならば、「籠」は世界にない 

その境地にたどり着けるのか...こんなことを考えているようでは不可能だ

「幸福」を求めていながら、求めてはならない、ということも「 」

惰性で生きるということなのか?

いや、違う気がする

溌剌と生きるということなのか?

わからない

どちらとも世界を身体で理解しているということになるのだろうか

違いはないのか

おそらくないだろう

惰性、溌剌だと判断しているのは私にすぎない

当の本人にとって幸せならば、「籠」はない

私は理解できないものを理解しようとしている

私は認識に生きようとしている

現実逃避?

だけど、私は「認識の生」に没頭し...没頭し...没頭し...『 』

そこには『 』

私はいつか籠を「 」によって「 」し、『 』を...

 

「 」は表現できない...ということも表現できない...ということも表現できない...「 」...