整備された道と大地

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虚無世界と虚偽世界 を参考にしてくれるとわかりやすい。

私は整備された道の上で生まれた。これまで、辛いことがあっても整備された道に幾度となく助けられてきた。「努力することで報われる」「人を悲しませてはいけない」「自分が嫌だと思うことをしてはいけない」「辛いときには誰かに相談するべきだ」など、これらは私が考えずとも反射的に物事に適用し、実際それが社会のためにも役に立つため、今まで私はこれらの常識を疑いもしなかった。そして、ここが整備された道であるということには気づかなかった。

しかし、日常の「ずれ」を大きく感じさせる出来事により、整備されていないただの大地を知ったと同時に今まで整備された道にいたのだと理解した。喜びは悲しみがあるからこそ感じるのと同じような感じだ。私がこの荒れた大地に降り立ったのは不幸な出来事がたくさんあったからだ。今では過去の出来事を不幸ととらえていないが、当時の私にとってそれは紛れもなく不幸だった。これが大きな「ずれ」であり、このずれを突き詰めていこうという思いに駆られた。

当時、「ずれ」の果てに大地であることは知らない。しかし、絶望し、絶望し続けること、絶望から希望を生み出すことによって、ようやくそれは大地だったのだと知ったのである。すなわち、絶望の限界を両側から規定することによって理解した。本来、この大地にはたどり着けないのだと思う。なぜなら、この整備された道は苦難があったときのためにもさまざまな道が用意されているからだ。たとえば、酒、煙草、他者との傷の舐め合い、仕事や趣味に没頭する。私はよく「酒や、煙草~」などというが、それはとにかく嫌いだからだ。今まで煙草を唇に触れさせたことはないし、酒も酔いつぶれるまで飲んだことはない。家庭環境のせいで、盲目的に嫌悪しているのだ。なので、実際その選択肢を選ぶ余地がない分若干人生を損している気がする…

それらの救済するための整備された道は人々がたくさん通った道だ。そこに独自の思考などない。いわば思考を指定されているのだ。この世界はすべて前向きに考えられるようになっている。社会的にそのほうが都合がいいからなんだと思う。だから、本来絶望によって道から外れることはない。よく社会の枠を外れたといわれる人間もたくさんいる。しかし、それもたくさんの人間が通ってきた道だ。なるほど、全く同一の苦しみや悲しみはないのだから、その意味で人それぞれ違うのだという意見もあるだろう。しかし、それは人間の差異ではなく人間の性質としての差異にすぎない。
だから、そのような整備された道であることに気付かない人間は人間ではなく、動物に限りなく近いと私は思っている。動物は、整備された道だけであるともいえるし、荒れた大地だけともいえる。どちらにせよ、動物は思考しておらず、同じ道をひたすら通る。絶滅の危機に瀕すれば、通る道を変え、みんなで適応しようとする。私がよく見る人間と何も変わらない。動物も性質としての差異はあっても、動物としての差異はない。このような差異を見出すことができるのは「人間」だけだ。善悪関係なしに動物的な人間はいるのだ。

ここで少し整理したい。

 

①    整備された道から、整備された道→快楽
②    整備された道から、大地→絶望
③    大地から、整備された道→逃避
④    大地から、大地を整備する→希望
⑤    大地から、大地→怠惰
 
①はもっとも道の範囲が広い。というのも社会制度、一人一人の人間、思想、宗教、科学...といったように整備された道からはみ出てもすぐに引き返すことができる。私の言葉でいうならば幾重にも重なる虚偽が虚無の存在を隠しているということもできるだろう。

②は日常に「ずれ」を感じ、それを独自に突き詰めていくことだ。誰の力も借りず絶望を直視する勇気が必要だ。

③は休息と言ってもいいだろう。「虚無世界と虚偽世界」の言葉を借りれば、虚無世界から虚偽世界の移行を意味する。(虚偽の分類をしている途中で、虚偽を呼び込む虚偽、虚無を維持する虚偽があると思うのである。虚無と虚偽は相補的な関係にあり、虚偽も重要である。このことに関しては次回書く。)

④は新たな価値観を形成することである。私は自分の力によって価値観を形成したと思っている。他人がすでにそのような価値観を形成していたとかいうのには興味がない。そして、私はこの価値観に安住する気はなく、捨て去らねばならない。(後述)

⑤は価値観の形成を行わず、絶望を感じ、絶望を感じることだけが目標になっているような状態である。この果ては自殺だろうか。以前まで、動物は自殺ができないために、この在り方こそが人間の真のあり方だ!などと思っていたが、今ではこれを「人間だが動物的な人間」と私は呼んでいる。


人間が人間であり続けるためには、絶望し続けることを意味する。しかし、それを意識したと同時に、荒れた大地は、整備される。だが、「希望」とはならず、絶望することが目的となってしまう。
実際、私はずっとその悪循環の中にいた。解放されることも特に望んでいなかった。そして、そのことが人間として生きることなのだと信じて疑わなかった。こんな思考して苦しむことは人間にしかできない。だから私は人間なのだと。
しかし、絶望にとどまり続けることは、快楽にとどまり続ける人間と変わりはなく、整備された道から外れたぶん、恐ろしくみじめだ。私は惨めさのどん底にある日々を過ごしてきた。絶望から何も生み出さず、ただ絶望し、いつのまにか怠惰となり、全く思考することがなかった。もちろん、私はそのことに気付いていても「知識」として理解できるだけで、「身体」として理解できるわけではない。だから、余計に辛かったという時期がある。
私の言う思考も「整備された道ではないか」というかもしれない。しかし、私のいう思考とは②③④を絶えず移動するものであるのに対して、大多数の人間の思考は①にとどまるための思考なのである。
②③④の運動を続ける者、すなわち価値の破壊と創造をひたすら繰り返す人こそが私の思う人間だ。絶望を求める者。希望を求める者。逃避する者。この三者を絶えず循環する者こそ人間的な人間。私はこのようになりたい。①と⑤は動物的な人間だ。
ここに「逃避」を加えたのは、人間も動物的な面があるということを私が認めているからだ。このことは否定のしようがない。ただ、逃避するにしても「忘却の忘却状態」に陥ってはならない。これは①を意味することとなる。①に陥ると復活することが難しいのだ。

①の例なんていくらでもあげられると思うが、「結婚」...思うにこれはおそろしいことであると私は思う。人と人が繋がることは整備された道を極端に増やす。二倍になるといってもいいだろう。大地を覆い隠すほどの整備された道...人はこれを幸福と呼んでいる。しかし、こんなの欺瞞以外の何物でもないと思うのである。苦しんでいてもすぐに手を差し伸べてくれる人が身近におり、慰めてもらうことも容易である。私の言う「人間」とは程遠く、生きているとはいえないではないか!と思うのである。まあ、私も脳が蕩けてしまえば、その「愛」とやらに真実を見出し生きていくのだろう。一生つかむことができない真理を求めるより幸せだろう。真理は虚偽にしかあらわれえない。ここが虚偽であることをも忘却したとき、ようやく真理はつかめる。だが、それは虚無に背を向けた真実でしかありえない。嘘に過ぎないのだ。

以上であるが私の「虚無世界と虚偽世界」の比喩として、「泥と雪」から「籠の中の鳥」から「整備された道と大地」と変化してきたが、今のところ私はこの価値観で生きている。また、いずれこの考えも放棄しなければならない。循環するために....そのために意見が欲しいのでお願いします。
机上の空論感がすごいのはなんとなくわかっている。わからない人には全く理解のできないことである。そのような人たちが羨ましくもある。わかる人にだけ伝わってくれればいいなと思う。

 

P.S.久しぶりに自分の考えをまとめたけど、断片的な日記をまとめる作業が難しかったです。