私に対する私のための〈私〉の言葉 二

真の自由は制約も何もない。 私が退屈を感じているとき、真の自由に身を置いているといえるだろう。しかし、私は不完全であるために、真の自由を穢すことによってしか、自由を感じ取ることができない。
寛容とは真正の無関心である。誰にでも等しく優しい者は、いくつかの仮面を持ち、〈私〉を決して見せない。〈私〉のみに関心があるとき、真正の無関心という形で、他者に優しくできるであろう。

私がここに無意味なことを呟かないようにしているのは〈私〉に対しての弁明だろう。私は「これらの呟きは意味あるものなのだから認めてください」と拙い言い訳をしているのだ。
☆がつかないのは〈私〉に言い訳が立たない。だから私は呟いた後に消すということをするのだろう。気にしないように努めたが、私の場合、〈私〉に対しての罪悪感に耐えることができなかったのだ。
だから、私はなるべく☆がつくようなことを呟くようにしている。そして私の日常なんて皆興味ないから呟かないようにしているのだ。これも全て〈私〉のためであって言い訳なのだ。

価値に翻弄される生は生きているとはいえない。死んでいるのと同じだ。動物的な人間なのだ。私は生きているという確信があるときが最も幸せだ。

私には他者の偉そうな態度を非難したいという欲求がある。しかし、事勿れ主義の私には攻撃することができない。その歯痒さは他者が優越を感じていようがいまいが、他者はきっと優越感を抱いているだろうという不愉快さに転化する。

何の影響も与えないにもかかわらず、新聞を大まじめに見ている人が周りにいて馬鹿らしいと思ったのだけれど、そう思った瞬間、私は観客、舞台提供者であり、周りの人は演者なのだということに気付いた。途端に私は愉快になった。
たとえ、どんなに下らない演劇であっても、自身の身体的な健康と空調管理、椅子の座り心地が良ければ、満足できるであろう。あと、できれば演者は話し掛けないでもらいたいが、それは無理な相談である。話しかけられたとき、私も演劇の一部に組み込まれるだろう。

世界をありのまま認めることができているのなら、私に表現はいらない。表現は確認のためだろうか。確認しないと忘れる程度なら忘れてしまえばいいのに。なぜ、文章 に自分を書き留めるということをするのだろう。なぜ〈私〉を繋ぎとめようとするのだろう。虚偽世界は不自然な自然の流れだという〈私〉の警告か?

〈私〉が見えないのなら死んだほうがましだ。この社会は私だけを許容しているのだから〈私〉が消失した動物的な人間にとっては、さぞかし生きやすいのだろう。〈?〉は今、私と〈私〉の間を浮遊していて、非常に不安定だ。〈?〉は中途半端で何者にもなれない錯綜した何かだ。

私は私に対して情の深い人間であるがゆえに結果として情に脆い。 ただ人間は根源的に孤独であり、他者はどこまでいっても手段でしかない。共感や同情によって楽しんだり、悲しんだりすることは甘美であるが、最も大切なものを覆い隠す。私はここを留意しなければ堕落の一途をたどるだろう。

手段としてTwitterを使う人、それ自体として楽しむ人ならいいけど、私は他者の反応それ自体が目的となってしまっていた。そして、漫然と目的がない まま使っていたため無意識的に目的化してしまい、その目的は他者の評価で達成されるかどうかで決まるために不安定なものだった。唾棄すべき私だ。

結論の出ないことを延々と考えず、思考を有用性を基準に考えるべきだ!という人がいるけれど、彼の言う無駄な思考をしないと、そこに辿りつけない。そして、辿りついていたなら、そもそも有用性なんか口にしない。偉人の名言を見ても、その通りに動ける者なんていないだろう。

様々な私が乱立し、対立している。いつか、私を統一できたらいいなと思う。些細なことがとても苦しい。だけど、それは思考を生まない。虚無世界の住人だけだったらどんなに楽だろうか。

些細なことであっても良心の呵責に苛まれることがある。そういうとき、場合によっては、あえて悪い方を選択するのがいいかもしれない。道徳的な人ほど、内省し、苦悩するだろう。そして、それが独自の価値基準の創造に繋がる。

私は道徳的な者に相談されることがある。その者に対して「電車の優先席に堂々と座るべきだ」と私は言う。 得てしてこういう者は常識とやらに盲目的に縋りついている。 だから、まずは小さなことから反抗し良心の呵責とやらを感じ、内省してはどうかと。大抵、笑われておしまいなのだけど私は本気だ。

「好き」の反対は「無関心」だと言うけど、本当にそのとおりだと感じる。「好き」→「嫌い」→「無関心」という過程を経る。なんか悟りを開く過程に似ている。「社会的」→「反社会的」→「 」みたいな。

お祝いすることも嫌いだし、お祝いされるのも嫌いだ。そういう場所が初めから用意されていて、その場所に沿った演技をしなければならないことは茶番としか思えない。ほとんど茶番なんだけど、こういうのはあまりに露骨で嫌気が差す。
だけど、これは単なる私のわがままかもしれない。茶番を除いたら一体何が残る?なぜ茶番の世界であるにもかかわらず茶番を許容できないのか。私だけは茶番ではないという自負なのか。もしそうなら、随分と傲慢なことだ。口にするべき事柄ではない。
茶番に気付かない人間に対して「これは茶番で、これも茶番で…」と指摘する態度は自分が茶番でないことを自分に思い込ませようとする虚しく単調な作業に過ぎない。本当に自分が茶番でないのなら茶番なんてやすやすと受け容れるはずだ。

理解されるというのは恐怖でもあると思う。〈私〉が薄まり、いつか消えるのではないかという恐怖。ただ、積極的に理解されようとすることは、やはり孤立を 深め思索の深化に繋がるだろう。臆することなく理解されようとするべきだ。ただ、これは精神の状態が安定していないとできないのが難点。

嫌悪感こそが思考を生む。たとえば、私はもし法がなかったら人を殺すということを真面目に考える。恐怖心はあるが、あえて殺す、つまり積極的な不安定に身を置くことで思索を深めたいという〈私〉の欲求があるのだ。そう、全ては想像だ。想像力が豊かならば発言する必要すらない。

私は不安定を望む。何もしなければ勝手に不安定になれるだろうけど、受動的ではいけないと思う。得るものは独りよがりで病的な思考だ…。思考を喚起し、積極的に私が〈私〉であることができるよう不安定な場所へ。恐れがある。これには勇気が必要なのだ。

私は衝動を向ける場所がなくなったときに消える。例えば、私に愛する者がいたとしたら、期間が長いほど私は〈私〉が見えないようになり、いつしか完全に消失 するだろう。そして、何らかの形でその者が消失してしまったとき、私は外にも〈私〉にも向けられない衝動の捌け口として自死するというように。
適当に生きていても同じように〈私〉は消えてしまう。〈私〉の消失した私は外における幸福に限りがあるにもかかわらず、退廃的な幸福を求め続け、ついに破綻を迎えてしまうというように。これ以外の私の死は考えることが できない。私は〈私〉が消えない限り、そこそこ満足に生きていけるだろう。

私は〈私〉を見ていない限り〈私〉ではなく、〈私〉をいつも裏切っている状態にある。私が幸福であるとき〈私〉に対する、裏切りは隠れているが、外の幸福 は有限であるために破綻を迎えざるを得ないため〈私〉と顔を合わせることとなる。そこで、気まずそうに目を逸らすと〈私〉の不満はさらに募る。

夢の最果ての存在。虚偽世界の住人と私は決して根本で分かり合えない。観えている世界が違うのだ。そこには優劣などない。なぜ、多数人に当てはまるであろう虚偽世界の住人に対して、目を覚まさせる発言をすることで、虚無世界に引きずり込もうとするのか...それはただただ私が弱いからだ。