自らの理想に敬虔の念が深い者へ

中二病だと非難する人に対して「いつまで人生の傍観者でいるつもりなんだ?」と更なる非難をする人がいる。前者は映画を鑑賞しているような生を過ごしているのであり、感動したりツッコミを入れたりするのは当たり前であろう。後者は声高に罵るのではなくCMのような立ち位置でいるべきだ。

そして、自らを中二病だと自覚している人間は注意したほうがいい。中二病だと非難されて自覚しては決してならない。
そう自称してしまうことによって自らの思う中二病の枠に囚われて演じることになるため、私を俯瞰する〈私〉が形成されてしまう。
すなわち、映画を見ている自分から私が主人公の〈私〉が操るゲームへと様態が変化するのだ。
このようなゲームになってしまうと大きなストレスを背負い込むこととなってしまう。つまり、私に〈私〉を重ねようと懸命になるあまりに、動きがスムーズでなく、またそのことに自ら苛立ち、さらにその動きを嘲笑されるだけでなく、嘲笑される自分を極度に気にしてしまうために、結局、敵に殺されるかゲームを放棄することになるのだ。
こうなってしまっては映画を見るのも退屈になり、さらにゲームするのも嫌になり、居場所が〈私〉にしかなくなるだろう。
そこで〈私〉に居場所を見出すことができたら幸せなことだけど、〈私〉にすら求めるものがないと諦めると、嫌悪感に塗れた世界で生きなければならず、不満が溜まり、一時の欲を満たしてはまた解消し...ということを延々と繰り返し、最後には自己崩壊してしまう。自殺や殺人によって掴み所がない曖昧な何かに身を投じることとなる。

このことは何も「中二病」に限らず言語一般に言えることであるように思う。実際、私も常識というものを当初盲目的に信じ、また常識的で素直で勤勉な人間であろうとするゲームに興じていたことがある。結果、理想は叶わず過度なストレスを自らに課すことを繰り返すことで強固な〈私〉を形成することになった。(現実と理想の乖離による苦痛の反復が〈私〉を強固にする)そして、未だに私と〈私〉の間をさ迷い、思考し続ける羽目になっている。いや、今ではその現状を愛しており、私は今後どこにいくのか定まっていないことを楽しんでいる節がある。なので、実質的に〈私〉に落ち着いたのかもしれない。(ここで主語を示さないのは私なのか〈私〉なのかわからないからだ。もちろん、わからないのが誰であるのかもわからない)

簡単な推移を示す。
私→私―〈私〉→〈私〉
大部分の人びとは強固な理想というものがないため柔軟であって過度な衝撃にも耐えうる。そのため私に一生留まるか、あっても「私→私―〈私〉」の間をさ迷うだけの軽傷で済むだろう。
ただ、もう〈私〉が強固に形成されてしまった者は私ではなく、ひたすら〈私〉に居場所を求めるよう努めなければならない。おそらく、哲学はその一助となるように思う。