「死」

「死」が実感できる者はいつだって達観していて、どこかつまらなさそうだ。
先が見えるということは虚しいことだ。
私が介入する余地はなく、ただ結果を突き付けられる。
その結果は思考を終了させる。

「死」は体験することができない。
だから、もしかしたら「死」は迷妄なのかもしれない、冗談なのかもしれない。
私にとって「死」とは身近なものであるために否定したい気持ちが強い。


たしかに、警察署から電話が来たけれど、私は現場を見てはいないし、御線香をあげに行ったときも、家族が演じていただけかもしれない。どこか遠くにいるという事実は否定しきれないだろう。
そして、これは私に対する「死」の洗脳かもしれない。
私が「かもしれない」というのは、それだけいつか死ぬことを教え込まれたからだ。

みんないつかは死ぬというけれど、私だけは死なない。
私が死ぬことがないなら、食事に煩わされることもなければ、家がなくても生きてゆける。
私は永遠だ。
永遠は「終わりのない絶望」を招くかもしれない。

だけど、今の私には永遠が、思考範囲外の事柄が、私に主体を与えてくれることが希望であるように思える。

余命宣告を受け、輝くように生きる者に私たちは心を打たれる。
だけど、その者は単に、生が手に収まるほどしか残されていなく「今」に集中せざるを得ないだけであって、そこに選択可能性はなく、輝くことしか残されていない受動的な生に過ぎない。

永遠は選択可能性にあふれている。
「死」は迷妄だ。

私が永遠を信じていて、仮に「死」を前にしたとき、私は絶望することだろう。
ただ、少なくとも今、私は死んでいない。そして、死ぬときはやってこないだろう。
私は永遠が主体を与えてくれるように祈る。