憎悪の終わり

私は先ほど目覚めた。今日は一体何時に寝るのだろう。
起きた後、すぐ顔を洗い鏡を見て、生まれたての憎しみを体現したかのような顔を憂いた。
思えば、「精神的クライシス」を調子にのって書いたけど、それ以降調子が悪い。

「ああ、本当に殴りつけたい。散々傷めつけた後で彼の息の根を踏みつけるだろう!」

────憎しみ、とてもつまらない。
君が憎しみを吐くのは自らの裡に置き場がないからだ。
自らのうちに置きたくない憎しみを他は欲しがらない。
流動性の感じられる言葉、そこに今まで憎しみはあっただろうか。

少なくとも私の憎しみの吐露は鬱陶しいだけだ。
他の解釈を許さない直接的なものはつまらない。
憎しみとは直接的でありがちだ。

私の心にはどのくらい冷えて固まった憎しみの塊が心を占めているだろう。
憎しみだけは、すぐに冷えて固まってしまうから私自身も解釈の余地なく嫌になってすぐ様吐いてしまう。
喜びはどうなのだろう。
笑いという形で消化しているのだろうか?
公にすることが当たり前、好まれていて、それ故に、公私意識せず笑い、実は消化している。

憎しみとなると、そうはいかない。
殴ることが推奨されておらず罰せられるからだ。

────憎しみ、何処へ。
それは顔つきであったり、手首の傷であったり、壁の穴であったりする。
憎しみは物理的な変化を求める。
思うようにならないから思うようになる範囲で手を加え、変化してくれることに安堵する。

自分で自分を傷付ける。
ああ、何て悲しく痛ましいことだろう!
公にされ得ない暴力を自らのみに理解できる形で遂行するのだ。
私の手記と同じように。

思えば、本質的に自傷したことを見せびらかすことと私が手記に書き取ったことを写し公にすることは同じだ。
気持ちが悪いのもまた同じかもしれない。

手首を清潔なカミソリで切ります。
流れ出る赤に安堵します。
写真を取ります。

真っ白な紙に黒を刻みます。
溢れ出る色に安堵します。
ここに写します。

両方とも、自分だけの秘密を誰か知らない人に公開する快楽、籠の中の鳥を未知の空に解き放つときの安らかな気持ちを感じます。

…恐ろしいほどにおんなじだ。
私の行為は本質的に自傷であり、それが基礎となっているから更新もまちまちで、また深夜なのだろう。

今でさえ公開することに抵抗のある自分を損な性格をしているなあと嘆く。
書き溜めた下書きがたくさんあるけれどもう下書きしてしまったら、公開してしまったのとさして変わらない。

残念なことにいつだって救われるのは公にする者だけで、自らに閉じ籠る者は救われない。
知られないと救われることもままならない。

自分で自分を救う。
そんなことがあり得ようか?
私は自らのうちに住む他者を飼い慣らそうと努めた。
それでも閉じこもれば閉じこもるほどに苦しい。
他者に疲れ、自分の心に潜ったものの、他者が見えない真っ暗な世界が、他者を想像する素地となり、他者の目が重なりに重なってできた黒という色彩が苦しかった。

この現実を私はこの6年で嫌というほどに痛感した。
未だに私は救われることを望んではいない。
それは意固地になっている面もあるのではないか。
私は一人を望み、一人に耐えきれず、他者を望み、他者に耐えきれない!
私が学んだのは結局、こんな当然で陳腐なことだった。

とりあえず、自傷ベースなこの自分からはサヨナラしよう。
見れるものなんてもう何も、何もない。
あくまで景色を素描するかのような感覚で軽やかに生きたい。





────今日は皮肉にも傷と虚ろな目をした本人が写り込んでしまうという滑稽な写真になってしまった。