やさしいあくま

わるさの中にあるやさしさ、悪と善が複雑に絡み合い、ときに強烈に映えるやさしさに私は随分と惹かれてきた。

「敵だった者が仄暗さに添えた優しさをみせて味方になって仲間と闘うシーン」というのは戦隊モノでよくみられ、私はその鮮烈なやさしさと特別な地位を占める強さに惹かれると同時に悪と善が同居する謎に打たれたのだった。(題名のやさしいあくまという絵本はあくまという悪のモチーフを用いることで優しさを鮮烈に印象付けている作品である)

いつ頃からなのか分明ではないが、それに影響をうけて突飛なことをするようになった。

悪い者が悪びれ相手に謝罪するということに多大な勇気を必要とするように、またやさしい者が万引きをすることに強い抵抗があるように、やさしさとわるさというものは相反するものであり、わるさにどっぷり浸かりながら優しさに片足を入れるというのは無上の苦痛であり、私はやさしさとわるさにたちどころに引き裂かれてしまうのであった。

そこで私はその苦痛を受け入れることなしにわるさの中にあるやさしさを、やさしさの中にあるわるさを実現するため、矛盾を合理的なものへと仕立てるために、わるさとやさしさに立ちはだかる壁を完全にのりこえる訓練をした。

ひとつ、人を裏切ることは私にとって非常に抵抗のあることであり、どうにか克服すべきものと捉えていた。

ふたつ、運動と勉強ができることは私にとってやさしさとわるさとが同居する謎と、同じ謎でありそこを目指そうと思った

さいごに、親しくしていた者が死んだとして、笑って生きることは半身わるさ、半身やさしさに似た双方の相反する力に数瞬耐えられるかどうかのひとつの私であり、そこに至ろうと考えていた

いずれも温泉から急に水風呂に浸かるような心臓を握られるような息苦しさと、もうひとつの世界を与えられたような冴え渡る直感とがあった。
そこによろこび、たのしさを感ずるようになるとやさしさとわるさという言葉が辞書以上のものではありえず、境界があいまいになった。

私には取るに足らないことが人びとには突飛とうつり、私には大切だと思われることが人びとにはくだらないとおもわれてしまうような倫理の欠如をうみだした。

私が苦しむのはここである、境界のないこの地点とは何なのだということ。
たしかに客観的な評価はなされる。
ありがとうという言葉を受け取ればやさしいことをしたのであり、宇宙人だといわれれば何かおかしいのである。
けれども、こころの部分ではそう断定してしまうことに強く抵抗している。

「やさしい者がするやさしさ、わるい者がするわるさの各々に対して惑溺しているだけで何も思っていやしないのだ」とけしかける私

「やさしい者がするやさしさ、わるい者がするわるさ、これだけ純然たる無垢なものがこの世にあるのか!」と憧憬する私

そのようには決して在れないであろう確信がある。
そのくせ、けしかける私と憧憬する私の中で酔い、悲しみを湛えているのだ。

水面に映った自分の姿に接吻をすることができないナルシスのように、私にできることは水面にうつる「そのようにも在れただろうわたし」を凝視することであり、触れたくとも水面に手を伸ばしたら壊れてしまう矛盾が宿命付けられている。

私は悲しみを逸楽と見紛う想像を手に入れざるを得なかったのである。