「あ」とか「う」

ほら、あなたのことについて語ってみてください。
自分はあなたのいうことについて何らかの所感を得るとおもいます。
そのとき、ひとつの対話がなされたというべきではないでしょうか。
少なくとも自分はそう考えております。
だからこそ、自分はなにも言い返す必要がないのです。
話しかけられたことにたいして答えることは余剰でしかないのです。

けれど、答えないとあなたは話しかけてくれません。
だからしぶしぶ、自分は「あ」とか「う」とか言うのです。
滑稽なことは重々承知しているのです。
けれど「あ」とか「う」は自分のこころの重たい扉を必死のおもいであけたときの一声、ゆいいつ自分があなたに返すことのできるお返事なのです。
インターネッツは実に便利な代物です。
とりわけついったーというものは、☆をさわることによって「あ」とか「う」とか言うことを許されているのです。
現実ではこうもいかないことは語るまでもありません。
いえ、あえて語りますが最近こんなことがありました。

自分は他人から「さよなら!」と明るく言われました。
もちろんこのさよならとは情けない自分の追放であることは皆が皆知っております。
追放にもかかわらず、あえてユーモラスに言ってのけるのです。
暗いことなのに明るく言えてしまうことに驚いてなのか「へへへ」という「え」とも「は」ともつかないその中間のわらいによって自分を惨めの極地へと追いやったのです。

「さよなら!」に深い意味が隠されていることを知ったのはひとり空想に耽っているときでした。
あのとき、自分も「サヨナラ!」とたとえ少々カタコトであったとしてもこたえることができたとしたら、どれだけ相手を困らせずに済んだでしょうか。(そしてそれを相手も間違いなく望んでいたのです)
自分の「へへへ」とはまさに「あ」とか「う」だったのです。
楽しいわけではなく、かといって悲しいわけでもない困惑でした。
なにも対応できず身体が発火するよりもまえに、自分はこころの扉をいきおいあけて熱を逃がしてやったのです。
ですから「へへへ」とは熱の逃げる音だったというどうしようもない結論にひとり、こころから笑いました。
(余談ですが、その日禿げているにんげんが、禿げているにんげんに「こいつ禿げていやがるぜ」と自分に話を振りました。このとき自分は何より怖いと思っているにんげんでしたから下を向いて黙るより他ありませんでした。あの気まずい雰囲気はいまもありありと思い出すことができ鳥肌が立ちます。「二人とも禿げているじゃないですか」というこたえを所望だったのでしょうか。いまだにわかりません)

自分はひとり笑いにわらってみました。
この笑いとは一体どこからでるのか、それは笑わねばわからないというように無理矢理声を出して笑いました。
そして、ついに咳込んだとき、自分は我にかえったのです。
そうしてから、自分は自分の目をずっと鏡で見つめておりました。
なんて空虚なのか、と思う余裕もないほど空虚がそこにあったように思います。

もうこの空虚、虚無をどれほど経験したでしょうか。どれほど捕縛されてしまったでしょうか。
あのとき咳込むことがなければ、自分はまだ笑えていたはずなのです。
空虚に苦しむことはなく、笑うことに夢中になれたのです。
空虚、それが何なのか自分には定義することができません。
ただ、逃げるべきものであることはわかるようになりました。
空虚とは逃げるべきものである、空虚とは逃げるべきものである、空虚とは…

そこで自分はもっと話してみようと思います。
「あ」とか「う」が許されていないから、なにか話すのではなく自分からこころの扉を開きたいのです。
いやいやすること、これほど情けないこともないだろうとおもうからです。
いやいやするようでは、扉を無理矢理に開けるので精一杯で夢見る余裕さえもありません。
たしかに自分から何ごとか、相手に伝わることを考えて話すのは苦痛です。
一方で苦痛だからすることほど、昂奮するものはないと自分は思っているのです。
「お腹が減ったから食べる」ことほどつまらないものはない「お腹が減ったけど食べない」、つまりこういうことなのです。
そこには目を向けるものがある。なぜだろうとひとは目を向けてくれるわけです。
対話することが下手でいつも他人に煩わしいおもいをさせてしまう自分が人から愛される方法は唯一、語り続けるほかないのです。
嫌悪しているからこそあえて語り続けるのです。

奇抜と呼ばれることをして他人を驚かせたり、悲しませたり、楽しませたり、、、いいえ排斥されてしまうような異物はもうころごりです。
悲しませたり、泣かせたり、とりわけ怒らせてしまうことはないようにしましょう。
この唯一の方法で自分は人から愛されていこう、そう幽かにこころに決めたのでした。