黒の器

抽象的な文字を積み重ねるということは自分にとって非常に重いことである。
それというのも自分は日頃から手帳に言行を黒々と記す癖があり、その黒々とは単なるインクの染みであることがほとんどであるからだ。

そして何を期待しているのかわからないが、形式上、私は読み返す。
文字とは読まれるものでもあり、そこに文字があれば何が書いてあるか気にかかるというように。
けれども、どれも経験したことばかりが書いてあり、何も読みとることができない。
ただ、こころが安堵するのはたしかなのだ。
日付と記された時が書かれてあって、ときに感情が克明に記されているのを確認すると少なくとも私はまだ生きている、と思う。
白に記される黒というのが、ほんとうの私である。

あくせくと世事にこころを煩わせて生きるようになってからは空白にただ書かれるべき事柄を夢想するようなこともたびたびあった。
そして、今の記す私にとってはその空白こそ手記であり、想像を喚起する抽象的な文字ではないかと思い至った。
その空白を眺める私はとても幸福でその空白に耽溺するためだけに手帳を日々持ち歩くといった具合なのだ。
そういうわけで書かれる黒としての私としての地位は著しく貶められ、白を際だたせる役目でしかない。
しかし、私はこの白がほんの少し怖い。
甘い夢想は砕け、現実に立ち返るようにし向けるようにただの空白が聳える。
想像の行き場のない神聖な空白となったのは奇しくも何も書かない日が続いたことと重なった。

書くことと書かれることを私は両立させなければならない。
そのためには生活について記すことをなるべく排して想像を喚起する文字を自らに与えたく思う。
限りなく白に近い文字、抽象的なことを書き連ねたく思う。
そして、それが何よりも自分の支えになるように。

私には書く理由というのが未だにわからずにいるけれど、つい書いてしまうのだから、どうせ書くのであれば抽象的なことを書き連ねようと思った次第だ。
その抽象的な文字にどうか個々の具体が収まるのが好ましいと思うけれど、それにしても私は人付き合いが極度に苦手であるし、どうやらその見込みはきわめて薄そうだ。
だから、私は社会に生きながら、気を遣いながら書くことに耐えようと思う。