焦燥

夜、何かを書こうとしても、まるで昼間の続きを書けない。ひとつに完全に休息していて昼間と夜間では考えが違うことがある。そのときの情景、心情を記そうと思っても何一つ真に迫るものはない。私はこう書こうと思っていた。

 
・・・こうして喫茶店で何も考えず座っていると鈍行列車でどこか知れぬ場に向かったあのときを思い出すようだ。
私の側に二つ、向かい合って二つの座席があり私の右側には針金の通る硝子を通して下町の風景がある。さらに囲うようにして幾何学の錆びた装飾があるので外の景色は判然と見えない。ただ人がぽつりぽつりと歩いているのが見える。ときおり自転車も通っているようだ。そして輪をかけて鈍色に曇っている。
椅子は机との高さが合っておらず、椅子のクッションは妙に弾むので猫背になりながら珈琲を飲んでいる。 
左側には粗野な若者たちの話し声が響いている。
私ははやし立てられているような気がされて仕事をしていないことへの焦燥が出てきた。
もはや私をつなぎ止めるのはここが列車と努めて思うことだった。するとこの騒々しい空間も賑やかな空間に相成った。誰もが楽しい目的地へ向かっているのである。無論、私にも楽しい目的があるはずだ、そう表現しても心が追いつかなかったので思わず色鮮やかな濃赤の椅子に視線をのせた。
対向に歩く人を認めるとこの空間が動いて景色が流れているような気がされて心が躍ったが、それも束の間、私を追い越す人を認めると焦燥に立ちかえるを得なかった。
けれども数瞬のうちに充分旅の感覚を味わった気がされた。それはすべきことを放った上に成り立つ不安定な休息を反映したものであったが、その漠とした不安も鈍行列車のあの旅を思い起こさせるには充分だった。

・・・そうしてついには鳴りもしない仕事の携帯電話が鳴ったことにして話を終いにしようと思っていた。
しかし、どうも不可ない。私の記述には何一つ迫るものがなく事実の羅列のようなことしか書けない。

記述が虚構以外の何物かであったことはあるのかなという声が聞こえてきそうだ。
結局は形に思いをのせていかなければならない。たとえ鳴らなくとも携帯が鳴ったということにすれば携帯は鳴ったのである。このことに質問を投げかけてしまうのは大人のすることだ。

何か虚構、物語を作り上げることに慣れなければ本心を語ることができない。現実の楽しみ、苦しみそのままの表現はあまりに自分に近くって羞恥、遠慮が生じてしまう。結果として気づかぬまま本心をねじ曲げてしまう。

物語、「A→B」をBに向かうとするのか、Aから逃げるとするのか、前提は決定していても解釈はいかようにもでき、そこに決定された事実から自由さを感じることができるのだから私は書くことに努めよう。

手記はあまりに現実にべったりで辟易とする、書いてしまってからこんなものはかかれるものではなかったし、書いた途端に書いていたときの感情も露骨で書くこと自体やめてしまえばよかったのにと後悔することが多くなった。