私に対する私のための〈私〉の言葉 三

私が楽しいとき、何か大切なものを隠しているような、虚偽を自らに感じる。眩しいとしか言い表せない。皮膚に中途半端にくっついた仮面が目を慣らすことに消極的だ。

私が読書をするのは、ちょうど、猫が猫草を食べて吐くように、言葉を吐く取っ掛りを探しているからかもしれない。

私が「死にたい」と書くとき、死にたいのではなく自分が絶望することを自ら許容するための手続きを踏んでいるのだと思う。

積み木がいずれ崩れるだろうと予感していても、崩れる光景、音を予測することはできない。崩れたという事実に驚きは何一つないけれど、身体に訴えかけるものに対しては驚きを隠せない。こういうとき、たとえ不謹慎だとしても高揚感がある。しかし、光景や音に圧倒されて、しばらく隠れていた事実が思い出されると圧倒的な憂鬱に支配される。おそらく、身体的な経験を得た前後で、私の立つ位置が異なるからだろう。

美しさの程度は、自己をどれだけ介在させることができるかに依っている。不完全であればあるほど、無目的であればあるほど、美しい。

精神が優れていればいるほどに、身体は朽ちてゆく。精神はこんなところに留まっていたくないという。精神が優位であるからこその自殺があると思う。それは悲しいことでは決してなく、微笑ましいことだ。

「人それぞれ」という主張は、安直に扱える早囲い。攻めに優位を築けるのは僅かであるのに、攻めに囚われた不幸な将棋指しだ。哲学とは崩しにくい、それが美濃囲いであったり、穴熊であったりする。どこに優位を置くかの差異でしかない。早囲いを馬鹿にする、この発言は美濃囲いに籠城した玉からだ。

孤の私は影踏みに興じている。振舞いは穏やかでありながら、悲憤の涙を浮かべていた。いつか影に足裏を踏まれていることに気付いたとき、私と影は宥和せざるを得ないだろう。

私は心があって辛いが、私の心を消しされば、もしかしたら何かの拍子で他人の心が空っぽの身体に上手く収まって、私は異なる生を生きられると強く思っていた。一人ひとり心があるのだから、心が行き来することもあるかもしれないと強く思い、「私の身体は空っぽだ」を意識し続けた。
私は上記のような事柄を居場所のない小学生の頃に感じていて、そのことをふと思い出し、今、思索している。ところで、よく哲学者が自らを紹介するときに「小学生の頃、存在不安に云々」と書いてあるが、あれが嫌いである。理由はわからないけど、不愉快で、それと同じことをしてしまった///
...結局、空想は叶えることができず、何にもなれず終いだった。残ったのは身の丈に合わない評価基準と長年、目を背け続けた、埃の被った心だった。時間が経つにつれ、前者は果てなく曖昧になり、後者は明瞭になってきた。そのことで私は私自身を測れなくなり、疲弊し、怠惰に日々を過ごすことになった。

私は思い切って溺死しようと思う。情報の洪水に溺れ、下らない藁を掴み続けたせいで、何かを掴まなければ生きていけない恐怖心が芽生えた。情報に操られるようになってしまったのだ!
私は「意図しない終わり」が怖いからこそ、考えることで、心の準備をしているのだ。いつの間にか、恐怖は消し去ることができたけれど、そして最初から恐怖なんてなかったかのよう振舞っているけれど。今はまた恐怖を感じられなくなってしまう恐怖がある。

なぜ喜びは共有したいと思うのに絶望は独占したいと思うのだろう。 絶望が私を創り出していると感じているからだろうか。 喜びは理解されるだろうと感じるのに対して絶望は理解されないということを知り尽くしているからか。 絶望は思考の苗床であり、これを失ってしまうと何も残らないからか。

私が物憂いと重なっているとき、水溜まりから曇り空を見つめ、降る雨をただただ浴びることを想像する。

私は今の自分と在るべき姿の違いが私の思考の端緒だと思う。矮小で醜いけれどこれが事実。いつの間にか知識が独立したかのように思え、端緒は見えにくくなるが忘れてはならない。

綺麗事をのたまう人間は酔っているがゆえに自らの酔いに気づいておらず、私のある意味で酔いを醒まさせるような発言には辟易させられるだろう。 綺麗事をのたまう人間から観ると、私もまた「おそらく」酔っており、私はその酔いを醒ます役割として綺麗事をのたまう人間の言葉を読んでいる。

「羨望」とは自分の窓から景色が綺麗に映っていて心地よいと感じることである。

辛辣なこと、奇異なことを言う者は....当たり前だけど社会不信や人間不信があり、それらを表現することで自らに楔を打ち込んでいるのだと思う。自分が決して「それ」ではないことを自分自身に言い聞かせるために。

外見とは、精神という液体の容物であるが、ときおり、その液体が染み出し、容物を変形させるらしい。本当に不思議に思う。

私の精神は空虚。本当に満たされている者が他者の空虚さを咎めるだろうか。幸福を幸福として認めるか、空虚な精神が隠れているだけとみるのか。空虚な精神を持つ私にとって前者は、取り繕っている感を拭い切れなかった。それでも、これは幸福なのだと言い聞かせたが、自己嫌悪に陥り、頽廃した。