疲労と余暇

私は病欠をした、久々に高熱で身体的な苦痛を味わった。
けれど、そのおかげで四日間の休日だった。

今日は「親指シフト」というキーボードの打ち方があることを知り、暇があった私は買い物に出かけた後、その打ち方を実践していた。
普段なら間違いなく時間を無駄にしたと感じていただろう。
しかし、自分でも意外なほど充実感を感じていた。

親指シフトで文字を入力することは利き手と逆の手で書こうとすることと同じであって新鮮味がある。
つまらない授業の際によくしていた、黒板の文字を左手で模写することで自身の能力の一部を開花させようとしていた少年時代のように、私は夢中で文字を入力していた。(諸事情によりこの入力はすべてローマ字入力だが・・・)

自分のできないことを、身体的に克服する過程というのはとても面白い。
一時期はずっと左手を使って書いていたくらいに習得したのだから、それだけ授業がつまらなかったということである。
今は、うまく書けないが、それはペンを両手で持つ必要がないからであり、当然の結果だ。
しかし、親指シフトは一度でひらがなを打ち込めるというのだから、そこに合理性はあり、きっと私は習得するであろう。

・・・この感覚、私は久しく味わっていないことに気づいたのだ。
特にしたくもないことを言われたままに行い、自発的にすることさえも結局は相手の気を悪くしないという思いが見え隠れしていた。
そういった環境にあって「利き手と逆の手を使う」ような余裕というのはなかったということに気づけたのである。
こういう当然の事実に気づけないほど私は社会に毒されてしまったのだろう。
私が具合悪くなったのもそのせいに違いない。

想像することの楽しさ。想像と現実を結びつけ、結果、想像が勝利していることへの満悦。それが欠けていた。

たとえば「新人の君たちはルーティンの中からまずは見て学ぶしかないんだ」と偉い人間が言う一幕があった。
どこか「やってみないとわかるものもわからないだろう」という漠たる気持ちがあったが、ただ聞くしかない、受け入れるしかないと思いつめることで漠たるものを打ち消そうと努めた。

けれども、もしその気持ちが生じた時にその気持ちの主軸となるような想像━━━親指シフトをうちこなしている動画を見て、初見の私が得ることなどないだろう━━━があれば、少なくとも閉息感、圧迫感なしに気楽に業務を進めることもできていたかもしれない。


私はいつも心の中で反論する(しないときなどあっただろうか)人間であるために些細だが、こういった想像がないとおそろしく消耗してしまうらしい。
なぜって口先だけで身のない反論をする自身に刃を向けてしまうから。
・・・こんなことさえもできないほど、私は疲れ果ていたのである。