血と内面

私は内面の世界から遠ざかっている。
仕事の都合上、私は回路を流れる血を見ることがある。
けれども、自分には流れていないかのように一瞥してそれきりだ。
より正確に言えば自らに血が流れていることが自然であるために忘れている。
忘却の上に皮膚、産毛が覆い被さっている。

それと同じように自らの内面も覗きにくくなった。
今、私を取り巻く外界の世界は動き出し、私を惑乱させ、ついには魂が抜けたように恍けさせるくらいに目まぐるしいものになった。

生活の大半が労働に費やされるようになったのは当然として、行ってみたいところが増えたということ、金銭を得たということ、人とのかかわりが増えたこと、孤独を感じる暇も少なくなったこと、人恋しいと露骨に思うようになったこと…
そして、深く考えることが少なくなった。

私の考えることといえば、ここに書くような事柄がそうであり社会には役に立たない享楽的なものだ。
だからこそ、価値があると思うが、社会人として生きるには邪魔にしかならなかった。
たとえば、私は日記を書くために何を言われようとも苦を想像への一手段としていた。
書くことで直接的に感じることを和らげ、私が私のままで解釈を変えることによって自分を正当化していた。
無論、書くことによって苦に支配される私から私の中に苦を位置付ける術があればこそ、今まで何とか生きることができたため誇らしくも思う。

しかし、今捨て去るときがきた!
いや、捨て去ったのだ!
私はへいこらしていて、自らの仮面の出来に自惚れていたが、そう甘いものではなかった。
内面の世界が実際の行動に漏出していたのだ…
私は自らの不器用さを嘆く。(ああ、一体何度お前は不器用な生き方をすると言われただろう)
私は不器用だったのだ!

そこで書くことをやめた。
無駄に苦痛をつらつらと記すことはやめた。(思えば、これだけ書いていたら何を書かないかが重要なのではないか?)

するとどうだろう、果たして私は死にたくなった。
受けた感覚の行き場がなくなり、現実であることを否応なしに痛感させられた。
ザーザーという耳鳴り、ビリビリとする頭蓋、グラグラと歪む視界。
息を殺し、髪を思い切り掴み、顔を伏せることで痛みが現実を遠ざけ、縮こまった姿態に感覚が目を逸らして諦めてくれることを祈った。

その祈りは書くことでもなければ、声に出すことでもない、全ての激動が心のみにあった。
今まで幻想に生きていたのかもしれないと感じた。
言葉を纏い、表現できない感覚を切り捨てることによって感覚量を制限していたのかもしれない。

現実に生きることが、書くことをこれほどまでに切望するとは思いもしなかった。
血もまた現実を懸命に生きることによって見られることを欲するだろう!
皮膚を掻っ攫うことを望むのだろう!