私はうえにあるように社会人失格らしい
過剰に保護され、同期と比較され同情の目を向けられている。
仕事は片手間にできるだろうと思っていたが、私の場合は上手くいかなかった。
普段からふとしたときにぼーっとしてしまうことがあり、また上下関係というものに疎く意図せずタメ口を聞いてしまうこともあるらしいのだ。
決して居丈高な物言いはしていないはずで、集団に溶け込むために、ときおりタメ口を混ぜるという私なりの交友の仕方が癖になっているのだろう。
あと、気が利かないということ。
礼儀については社会人になってから学ばねばならないことが多すぎるというのもあるし、不知不識のうちに機を逸するということがある。
もちろんぼーっとして、だ!
なぜぼーっとしてしまうのだろうか?
致命的な社会人としての欠陥には相違ない。
ただ私には外界の色めく世界に身体を変化させることはかなわない。
そういうわけで、不幸を零さないよう視点をある一点に集中し、静謐なモノクロ世界を創り上げ、色を点けられては消火し、色を点けられては消火しと果てない色彩の火事と鎮火を内面で繰り広げているからではないか?
周りからは空恍けているよう映るのだろう。
実際、声をかけられて意識が向いたときにはぼーっとしていたな、と思うが、今みた夢は何だったかなと懸命に考えるのと全く同じようにして考えると上記の憶測がしっくりくる。
…ああ、私は悔しい。
社会人になって悔しいと思う日が来るとはつゆとも思わなかった。
「死なないで」と懇願されれば、その悲痛な声音に何よりも死を実感させられるように、私は社会的に死ぬのだということに安堵を感じていたが、生活をまずは成り立たせろだの悔しいと思えないのはまずいだの何だのが、私を全否定する「死ね!」のように思えて、悔しいと思えるようになった。
悔しいと思えるほど生活が仕事に侵食されているということは看過できぬことであるが、一体どうすればよいのだろう?
…この土日は憂鬱に過ごした。
頭が痺れるように重く、レム睡眠行動障害も再び見られるようになった。
この世に生きているのが何かの間違いであったことのように思う。
もちろんこれは視野狭窄というやつだ。
しかし、それが何だというのだろう?
今日は雨が私の精神に同調してしとしとと降ってくれて嬉しかった。
それだけの休日だった。