生活と笑い

ようやく新しい生活にもちょっと慣れてきた。
実家から解放され気楽になった。
しかし、不都合であったことが身体にぴったりとくっついていたのだろうか、地に足がつかないような煩わしさを感じている。

最近の生活とは平日に眠っていて、休日に目覚めるような、そんな生活をしている。
外の世界が廻るだけで、ただ目を回されるような生活だったけれど、ようやく落ち着いてきたようだ。
どうしようのない憂鬱がときおり襲うことはこれまでもあったものの、慣れない生活が慣れない人間が、慣れない仮面が苦しさを増したこともあったけれど。

家電は電気ケトルと間接照明を除いて一切ないけれど、特に今のところ不自由を感じたことはない。
肌着は踏み洗いをしていて、私服はこれまであまり洗わなかったし、汚れたらコインランドリーを使って洗えばいいだろう。
昔は派手で奇抜な服も好きで服装に気を遣っていたけれど、もうずっと同じ服を着ている。
装いとは他への気遣いであって私は疲れてしまう。

テレビもパソコンもない。
テレビは今までも見なかったから問題ないにしてもパソコンがないというのは以外と不都合というか物足りない感じがしている。
それだけ依存していたということ。

とりあえず、何にしても初めてでわからないので不都合だと感じてから徐々に揃えていこうと思う。
そうでないと物に使われるだけ、大切なものを見極められず物に溺れていくだけだ。
オフィスチェアと机と布団と本と、あと私に何が必要だろうか。

食事はもともと小食で娯楽と捉えている向きがあるので適当に外食か、冷蔵庫がないので常温保存のできる野菜を食んでいる。
食べないと死ぬというのはどうしても理解を超えていて、食べることを重要視していない。
料理ができないのはちょっと自らの残念なところだ。
同じく辺鄙な地から上京した友人の手料理を食べたとき、何より美味しかったというのが大きいが感慨深いものがあってじーんときた。
食事はこっちにきてからはお団子、ラーメン、パン屋のパン、とんかつ、オムライス、そば、たいやき、アイスあとは常備してある野菜を食べている。
散歩するのが好きなので、食べるとはその延長線上のものだ。

土曜日はだいたいどこかに出かける。
神社がたくさんあるので楽しく安らぐ。
つい最近は画廊を訪れた。
まあ、絵を見たというよりは絵を見る者を見ていたのだけど実に滑稽だと感じたのだった。
けれど静謐な空気があって新鮮味があった。
色々、こういったことも含めて書くことが増えているので飽くまでは芸術に触れていたいと思う。

もう日曜日が終わろうとしている。
今日は近場に出掛けてぼーっとしたり、読書(冷めない紅茶、生誕の災厄)をしていた。
今は銭湯上がったあとでぼーっとテレビの音を聞きながらこれを記している。
明日からも変わらず研修が続き、自分でも憂鬱になることであるけれど人に警戒されぬよう、心の垣根をつくられないよう気を遣わねばならない。

つまり、笑うということだ。
少し笑っただけで筋肉痛になるようなことはなくなった。
笑いをうまく装うことができているだろうか。
その装いの笑いと自分がくっつかないよう家に帰って表情のない表情を繰り返す日々さ。

さあ、笑おう、笑いましょうか。