なぜ私たちは生きる意味に囚われるのか

人が生きる意味を問うときしばしば悲しみを伴って表現される。私もそのような一人であった。そして、そのような問いを深めていくと何もかも虚しく、心の間隙を満たす諸処の出来事は私にとって虚偽であるとしか思えないようになってしまった。本来、私たちが外的な事柄に熱中することこそが誠実と言われ、生きる意味について考えることに囚われたために社会性が欠如してしまうことは不誠実であると思われるが、私は価値転倒を起こしてしまったのである。すなわち、自身について考えることこそ誠実であり、虚偽が氾濫している世界に身を置くことは不誠実であると考えるようになったのである。

生きる意味とは端的に、思考し続けるという運動によってのみ示され、忘却によって一方的に与えられるものである。そして一方的に与えられる存在理由は思考を停止しているために、与えられるという実感を得られることはないと私は考えている。しかし、このような答えは極めて個人的なものであり、生きる意味は身体をもってしてすでに答えてしまっており語りえないため、ここでは生きる意味について語ることを控える。なぜなら、生きる意味について語ることは戦争の真っ只中に、「戦争をしている」ということ同様にナンセンスだと感じるからだ。そのため、ここでは生きる意味について語るようなことはせず、なぜ生きる意味に囚われるのかということについて考えたい。

自分について考えざるをえないきっかけ、すなわち固定化されたこれからも続くと考えられた平穏な日々という理想とそこから乖離してしまった現在というずれは金、名誉、人権、民主主義、政治、宗教、神、信念、思想、科学も、家族、愛、友情などの虚偽によって修復されてしまう。自分自身に意識を向けることはごく自然な事柄であるにもかかわらず、この世界は社会に意識を向けるように誘導する。これを虚偽世界と呼ぶこととする。そして、ずれを一つの契機として、与えられた役割、演じていることを意識する世界を虚無世界と呼ぶこととする。仔細に述べると虚偽世界とは今のこの世界、生きる意味があるのかどうかわからない世界を一方的にあると決めつけ、決めつけたことすらも忘却している世界、ゆえにこの世界では常識を疑わず、疑ったとしても、それは幾重にも積み重なる常識の表層に過ぎず、根本的な問いにたどり着けない世界、そして、それは快楽に溺れた世界である。そして、虚無世界とは生きる意味があるのかどうか全く分からない世界、ゆえにこの世界では否応なしに自らの生について考えざるを得ない世界であるにもかかわらず答えのない世界、そして、それは絶望に満ちた世界である。

私たちは普段、「なぜ生きているのだろう」と問うことは少ない。なぜなら、私たちには生まれてから役割が与えられており、生きる意味を考える暇もないくらいに社会的な自分を演じ、演じていることすらも忘却して生きているからだ。忘却の上に成り立ったこの大多数の幻想が自分自身に意識を向けさせることを中止する。この幻想は確固たるものであり、自身の内面に意識を向けさせる不幸という契機があったとしても、それは他者から支えてもらったり、趣味に没頭することができたり、また仕事に熱中したりすることで奪われてしまう。そのくらいに、私たちの周りには自分について考えなくても済むような快楽が氾濫しており、そのことで私たちは快適に暮らしていける。

たとえば、科学技術について、私は今、電子機器を用いてこの文章を作成している。昔は文章で何かを伝える際には手紙によって連絡をしていたが、現在では特定、不特定を問わず、誰に対しても瞬時に何かを伝えることができる。現在でも手紙による伝達はされているが、これを日常的にすることは苦痛であり、手紙という手段を考えることは少ないだろう。これと同じように、生きる意味についても人は神を創りあげることによって代替し、その上に宗教や科学、信念などを上塗りしているため、私たちは「なぜ生きているのだろう」と問うことも少なく、そのような問いを考えることには苦痛が伴い、その苦痛から逃れるためにたやすく虚偽に身を委ねるのである。

そして、しばしば、そのような問いに対する答えとして生きる意味がないという表現によって、この生の無意味さが嘆かれる。しかし、ここでいう無意味とはかつて生の意味を承認していた者による、奪われた者の嘆きに過ぎず、無意味と言いつつも価値を承認しているのである。そのため、この時点においては、私たちは他者に慰めを求めたり、趣味に没頭したりすることによって、この無意味が感じられたことによる絶望を覆すことが可能である。しかし、ずれが大きかったり、頼るべき外部がなかったりなど程度が大きいと、全ては欺瞞であるように映り、たえず自己欺瞞に苛まれるようになる。そして、そのような自己欺瞞の最中にあってはじめて生きる意味は示されるのである。答えというものがあるのかないのか、それとも何もないのかということもわからない世界が示唆される。そして、そのような世界は私とぴったりと重なっているために、普段はその近さが意識されず、虚偽から脱して初めて、その世界が露呈するのである。
今ここに生きる虚偽世界上の私と虚無世界上の私は、前者の私によって普段隠されているが、後者の私は本来経験されるべきはずのごく自然な世界であるにもかかわらず、隠されているために、虚無世界上の私は異常性を帯び、虚偽世界から虚無世界への移行にあたってことさらに絶望し、虚偽における既存の生きる意味に固執してしまうと考える。そして、このことは生きる意味の根本的な解決となっておらず、何かしらのずれが生じるたびに、虚無世界上の私が顔を出すことによる漠然とした不安が表出し、それを虚偽で取り繕うということを繰り返す。そうすることで生きる意味を求め続けるという構図が出来上がると考える。

最後に付言しておくと、私の生きる意味とは、虚無世界と虚偽世界を循環し続けた後に最終的に虚偽を虚偽として意図せずに引き受けることであると考えている。すなわち思考し続けた結果疲弊し、虚偽を認めざるを得ないことこそが生きる意味を与えるのである。結局のところ、虚偽という幻想は確固たるものであり、そこから端を発する思想であったり哲学であったりは無力でしかない。私はこの無力なことこそが楽しいが、私も飽き、意図せず許容しなければならないときが来るのだろうと思う。