言葉と銃弾

私は最近、憎しみを書き連ねてばかりいる。読み返しても汚い字と言葉にうんざりさせられるだけで見ている私を何も楽しませてはくれない。
自傷行為のように、いや自慰行為のように本来吐き出されるべきでないところに精子を吐き、そして捨てられる。はたしてその精子に意味はあったのだろうか。
ここで言い直したのは私のこの目の前にある手記、憎悪にまみれた真黒な文字の塊を見て、自分に宛てて書いているのに自分にさえ感を与えない、ただの嘔吐物だと思ったからだ。
 
私は意味あるものはあろうかと問う。
────何も無いと、いや無いということも言えない地点へと。
まるで椅子に座ろうとしたけど、悪戯されて椅子無いままに仰け反り、そのまま永遠に後ろ回りをする無限後退
くるくると回っていつしか上下左右の区別がつかなくなって。
そういう地点に至ってしまうんだ…。
 
だから、私は何を選んでよいのかわからずに何かに弄ばれ、退屈する。
目の前に与えられた義務さえ義務と思えず、無気力になる。
私に何のきっかけがあろう。
仕方ないだろう、こんなことになってしまうのも。
 
私の怠惰はそう、自身を問い、その最果てに辿り着いた証左だ。
…なんて笑われるだろうか。
少なくとも私のある部分は失笑していて、そのことで私は虚しくなるし、さらに誰かが笑っているところを見ると少なからず私は悲しむだろう。
 
他人なんて自らがこしらえた他人のほうがよっぽどよい反応するし理知的だ。
何もかも問題は表現するか否か、公にするか否かにある。
こうしてみると、表現と公を同一に語る私が自らのために表現するというのは何とも可笑しいね。
銃を自分に向けて撃つのと同じくらい滑稽で悲しいよ。
 
銃って自殺するためにあるのかい?
────もちろん、そういう使われ方もあるだろう。けれど、本来は他を想定して、他人を殺すためにあるものなんだ。
別に「本当は」とか「本来は」なんてどうでもいいという声が聞こえてきそうだ。
 
「本当は」って一体どういうことなんだろうね?
────「多数が」ということと同じなんじゃないかなあ?
だって、本当がなんだろうと多数がなんだろうと自分がどう思うかにかかっているわけだろう?
自分が銃を使って自殺するとき、その銃は自殺のためにあるのであり、自らを殺すためのものに他ならない。「本当は」何て言っても意味がない。
 
さて、私は言葉をどう捉えているのだろう?
私は銃でいうところの〈自殺〉を一体言葉で何万回していることだろう。
もしかしたら、私は言葉で自らを撃ち抜いているのではなく空撃ちで弾はどこか遠くにいってしまっているのかもしれない。
…多分そういうものだ。
そして、その自らの弾は、長い時を経て見つけられるものだから、私に何の感慨も与えないのかもしれない。
そこらじゅうに散らばっていて、小石と大差ないように思える。
見つけるまでの間、つまり私が過去の手記を読もうと探しているあいだはわくわくするけれど、見つけたとたん興が冷める。
 
私の銃弾は爆発しなかった。全て不発弾で必ずどこかに、自分自身が見つけるためだけに残っている。
銃弾なのに誰かにあたりもせず不発弾ときた。
撃つ人間が不具なら撃たれる銃弾もまた不具だった。
 
…本当に私のこの誰宛でもない自らの表現はそういうものだと思うよ。
いつしか、誰かにめがけて撃ち、その胸で爆発してくれたら私は嬉しいだろうか?
「本当の使い方ができた」と子供のように喜ぶのかもしれない。
だって、私にとって本当はありきたりではなく、特別なのだから。
 
 
近況、私は弱っている。
 
私は初詣に行ってきた。一昨日、二回目の参拝を前にするべきかしないほうがよいのか…で悩んだ。
大衆を避け、自身に祈りを捧げるべきだと…そして、参拝しても何も変わらないじゃないか…と思った。
しかし、思惟を巡らせる後、私はこれから大衆に気を遣って生きるのだから、たとえ自らに祈りを捧げるとしても、参拝という行為自体が他への気遣いになるだろうと思って、参拝することにした。そして、栞を買って、おみくじをした。二回目もまた「吉」だったので今年は吉だろうという妙な確信を抱いた。
我ながら単純だと思う。人は納得のために行動するのだ。
私は今年も充実していたい。
今年から社会に出るのは、そして東京に出るのはちょっと抵抗のある、不安なことだ。
なんといっても私はほとんどを田舎で過ごしているのだから。
この不安が杞憂にならないように、とりあえずは大学の三年の後期から変わらない残りの四単位をとりたい。
 
あけましておめでとうございます。