私に対する私のための〈私〉の言葉 四

精神の抜け殻を日記によって収集し、それを仮想世界に放り投げて、ぼーっとする空虚と愉快。


生きる意味は身体に記され、精神に示される。


もし私に手がなかったなら、私は動きで「絶望」を表現をするような完全な狂人になっていたことだろう。今だって私は文字の中で完全に狂人だ。手がなく記述できなかったら、私は、そこかしこに自らの頭を叩きつけ、何もかも蹴り上げ、最後には、頬で体重を支えるようにして這いつくばることだろう。


私は人と接するのと同じような、人と接したときに受ける印象の強さをもって読書できたらいいのにと思う。本はいつも其処にいて銅像のようなので、話しかけるの疲れる。しかし、選べるので気楽だ。


私は今、世界のすべてを見た気になって、疲れ果てたように内面を旅している。外界にときおり、楽しいことがあっても、ちっぽけな薄氷が辛うじて深海に引きずり込むことを防いでいるだけであって、いつも諦念が同席しているのだ。


自らの行為にいちいち醜さを見出すのは弱者故だ。あえて、重荷を背負い、それに耐えてみせることなんか、ひとつも強者ではない。私は軽くなりたい。そして、それこそが創造だと思う。


虚無に届くことは決してない。狂ってしまった者は皆、虚無を支える空から洩れ出した雫への恐怖、存在空無への予感に耐えられなくなってしまっただけに過ぎない。虚無は空の向こうにある深海であり、皆、哀れにも虚無の雫に怯えながら傘をさし、凍えないように、凍えないようにと!


「儚さと奇妙な笑い」という言葉を私が書き終えた瞬間、これに青、赤、黄、緑の鮮烈なイメージが浮かんだ。


私の主体を引き剥がそうとする人間がいる。だが、全く欺瞞しか見いだせず、さらに〈私〉もまた欺瞞だと強く感じてしまうような、何者でもない宙ぶらりんな《?》になってしまっている。不安定で考えざるを得ないため、ここからまた誰かが産まれそう。


純白を克服し、認め、充足したとき、私は彩りをも厭わないだろう。


虚無=雫、空、深海、土、大地、火、純白、絶望、現実、永遠、非言語、顔貌、〈私〉
虚偽=彩、雲、雪、籠、道、夢、薪、積み木、洪水、希望、理想、死、言葉、仮面、私


私は自らの思考物というよりも思考習慣に苦しめられている。思考すること自体に快楽を見い出せないとき、届かないものを安易に手に入れようとする。しかし、届かないものは届かないので絶望のうちに、身近な虚偽を求めるが、習慣が、安住を拒絶し、私は途方も無い絶望を味わう。


箱の蓋を開けるワクワク感。だけど、開けると興が冷める。もう想像できないからだ。それが嫌で箱の蓋は開けず、空想することだけに喜びを見出すようになった。箱の蓋を開けざるを得ないとき、私の空想に合致していることを思うとあのワクワク感が蘇るけど、開けるといつも裏切られるのだった。


社会から仮面を配布されたが、ある衝撃により割られてしまい、仮面を取り戻そうとするも、その間に顔は膨張してしまい、顔が仮面に収まらなくなってしまった。その者は醜いと罵られ、自らの手で仮面に収まるような顔に成形するも、奇形となり、自らの手で成形したことを以て誇りを持とうとするお話。


疲労は偽りのない安息を与える。


茶番を演じるには軽蔑と、何よりも憐れみが必要だ。今までは憐れみが欠けていたので上手くいかなかったように思う。


情報に翻弄され、自らを忘れてしまったときには子どものような精神に至るよう、私の精神から流れる血に注意を向けよ。ただ、貧血になりすぎないように。


私は無意識的なものの憧憬故に意識的で在り、それを自ら望んでいるのに、無意識的極北にいる人間を軽蔑する。無意識にのまれてしまえば何もかも楽であるのに「憧憬」がそれを拒み、「憧憬」がそれを欲する。


虚しさは寂しがり屋で嫉妬深い。


働いても得られるのは疲労で視野が狭くなったことによる安堵や快楽のみだ。そして、そのことに人は酔い、でかい顔で生きていけるのだろうなと思った。虚しすぎて死んでしまいそうだという気持ちもまたかき消され日々を居る人間たち。


読み手に理解されえないにもかかわらず読み手に理解を促すようなところに美しさがあるのだろう。つまりは主体性を読み手に持たせ作者との合作となるような作品は美しいと思える。


他者は気が重たい。初対面、そして二度と会わないであろう人との交流は楽しいけど、知れた気になった者はつまらないし表面取り繕うことが苦痛だ。気心が知れた者、一二いればいい。ブラックボックスをパカッと開けて知れた気になって遠くにいきたいのだ。理解されないことに飲み込まれるより前に。


絶望は希望という形で裏切るが、快が目を眩ませる。そして、そのことがたまらなく不誠実に思える。必死に重荷を背負おうとしている。その重荷が誠実さの象徴だと言いたいのだろうか。「重荷」と表現されるくらいなら背負わなければよかったし、捨て去ればよかったのだ。


最高に低俗な人間でありたい。そのためにあえて社会人になって道化師として笑ってやるのだ。低俗故に堕落するなんて中途半端で低俗の風上にも置けない。


有為に留まれば焦燥、無為に留まれば怠惰。


積み木で遊び終えたら片付けなければいけない。いつまでも散らかった部屋で余韻に浸っていては次、積み木を積むとき、その美しさは雑然としたところでは映えないであろうし、何よりも置き場がないだろう。


饒舌多弁の舌は干涸らびていて異臭を放つ。舌はなるほど、乾きに自覚的で異臭を知っているかのような口を利くが、異臭に慣れっこで自らの異臭を一つも感じ取っていやしない。その言舌は空疎で不快を与える。異臭への無感覚と誇大妄想、御大層な知識がその舌を永遠の異臭者にする。
饒舌多弁の舌は水気を求めて蠢き続ける。その舌は自らの不誠実さに嘆くことで誠実であろうとする。けれども決してその言との合一を果たすことはできないだろう。その舌は他者を啓発し、自らを誑かす。多弁である以上自らに離反していることは避け得ない。


失望は怒りから大きく隔たっている。今日、他者に苛立ちを感じ「 私自身に怒りを感じないのは何故だろう 」と考えたら、つまりそういうことだった。他者には思い通りにしたいという気持ちがあるが自身にはない。私は失望の最中にあった。ついでにいえば私は穏和より激情家であったことも思い出した。


一人のとき、集中しているときは雨音を聴く。自身に馴染み心地良い。人のたくさんいる場所でも雨音を聴けば、一人が許されると思っていた。けれど、雨音が私と私の引き裂かれる音にしか聴こえず気味が悪くなった。


私が虚偽に在るとき、私は弱者であるために向こう側の世界を持ち出しては耐え忍ぶ。私が向こう側の世界に在るとき、私は虚偽を持ち出しては自らを卑下する。私が安住する地は何処にもない。


みんなが楽しいと思うことを楽しいとは思えない。だから世界を二分して考えているけれど、ときおり境界が曖昧になる。何もかもに暗さが付き纏っていてその暗さに飽きて、その暗さに飛び込んでしまいたいと思うようなときがある。暗さに嘆く受動性をどうにかしたくて。


私は見下げ果てたところへかえる。全くかえりたくはないが。小中時代の不安や居心地の悪さを思い出す。私は閉じ篭ることで社会を包摂していた。けれど社会に塗り潰されるときが来る。綺麗なままでいたいという願望は怠惰だろうか。ふりをすることは自分を知ることだというペソアの言葉が身に沁みる。


語るとは傘をさすことだ。濡れていないぶん真剣味に欠ける。
私は雨滴を免れている者共を憎む。傘を知らず傘を振り回す者を憎む。傘を携えながら濡れる、その理解し得ない重さが私の唯一の救いである。


私がたったひとりのとき、私は世界の精神を担っていて、私の一挙一動が世界の精神の揺れ動きとなる。そして世界の精神の中の精神、つまり私の精神は消えてしまうだろう。私の精神の中の精神が把握できないのと同じように。


知識はそれを生きないためにあり、自分を生きるためにある。知識に溺れた人間は消去法的に自らの生を生きていることを知らない。知識の役割は形容のできない範囲を明瞭にすること。


なぜ書くのかと問われれば、いくらでも理由を答えることはできる。けれど、どれも腑に落ちない。書くことのほうが私に根付いたのだと思う。だから理由は知らない。額に偶然とまった美しい蝶のようなもので、私をみすぼらしく見せているのかもしれない。