反社会的行動のすすめ

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 一見、ありえないと思われる選択肢についても徹底的に考える必要がある。そのうえで自らに正しいと思われる選択肢を選ぶことが大切だ。このことは私の可能性を広げるだけではなく、自らの選択に責任を持たせることに繋がるだろう。そして、そのためには「反社会的行動」が必要だと私は考えている。ここでいう反社会的行動とは、一般的な意味で使う反社会的行為のみならず、法律、規則、常識に反する行為、思考のみならず、広く一般人とは異なる行動、思考を指すこととする。

たとえば、今では 高校に行くことが当たり前になっているが、高校に行かないという選択肢も必死に考えたうえで、選択肢を比較衡量し決めることが大切である。しかし、実際このことを実行するのは難しい。

なぜなら、周りの人間に合わせなければ非難されることが多々あり、周りの人間がしていないことは往々にして情報が少なく負担も大きいからである。実際、こう言っている私も特に何も考えず結局は社会の流れに沿って生きてしまった。なお、私は今まで、常識に反することや、規則に反することを幾度となく行ってきたという自負はあるものの、ただ規則が嫌だからという理由で反社会的な行動をとってきたために、そのような私に「選択肢」は 開かれていないことに注意したい。

それでも、反社会的な行動をとることは他者に非難されることがよくあるため、内省するにはもってこいである。そして、内省を通じることによって自らに選択肢が開かれるのではないかと私は考えている。反社会的行動の参考として私の経験から三つを挙げたい。


①暴力行為
②学校に自分で休むことを伝え、親友と一日中、展望台で空をぼーっと眺めたり、電車で遠いところにいったり、ファミレスで一緒にゲームしたりする(全7回)
③昼休みに学校外に出かけ、親友と公園のブランコで人生のつまらなさについて語り合う(全20回以上)

思いっきり、一般的にいうところでの反社会的行動となってしまっているが、重要なことは反社会的な行動をしているという自覚があるかどうかである。私にとって上記3つは今までの教育や非難されることによって常識に反していると自覚し、反省したことがあり、後ろめたい気持ちがあった。なお、これらの反社会行動は中学までであるのでお許しを。①だけ付け加えるが、私はとても細く、肌も白く、そして非力で臆病で絵にかいたような弱そうな人間だった。争いごとなんて大嫌いだった。親にも「自分から手を出してはいけない」と言われており、そのことを盲目的に信じていた。そのために廊下を歩いていてものすごく体格のよい人間と肩がぶつかってしまい、いきなり顔面を殴られ歯が消し飛ぶという事件が起き、狂ったように暴力至上主義的な考えとなっていた時期があった。しかし、もとが大人しい人間であるため、内省することがあった。しかし、殴ることがダメだと一方的に言われていたけど、人、物を破壊するのも悪くはないのかもしれないなと。そして、犯罪しても罪が軽いうちに暴れておこうともよく思っていた。結局、そこまで派手なことは全然しなかったけど①②③の経験は常識が全てではないという簡単なことに少しだけ気付き、思考の幅を広げる一歩となったように思う。
しかし、反社会的行動をしているという自覚のみではいつまでも社会に縛られ続け、どこまでも社会を基準としたものの見方しかできなくなってしまう。その「社会」という呪縛から逃れるためには、まずは反社会的行動によって枠を超えたのちに、内省を通じて自らの基準を創るということが大切である。なるほど、社会の基準が私たちの根底にあるのだから、たとえ、自らの規則をつくったとしてもそれは社会の基準から逃れることにはならないというかもしれない。しかし、自らの規則に従って行動していくうちに、社会の基準の「忘却」が可能になると考えている。大切なことは、本人が枠を逃れているという自覚を持っていることである。「お前は社会の枠から逃れることができていない」と主張する人間は社会の枠に安住している俗物だろう。そのような同調圧力に耳を貸す必要はない。周りに取り込まれるのではなく、すべて自らの規則に社会を当てはめて、取り込もうとすることが大切だ。
私はとても神経質で、自らの選択に後悔することが多々あるけど、自らがつくった規則を理解しておけば、訳の分からない悩みというのは減ると思っている。そしてこれは私の場合、誰の力も借りず自らの「神経質」を突き詰めることによってなし得た。このことは生きにくさを感じている人間にとっても役に立つような気がする。なぜならそのような人間は往々にして神経質だったり内向的だったりするからである。枠から外れた考えというのは「絶望」であるため、なかなか人に勧めることは難しい。それでも、神経質な人間や内向的な人間はそれを突き詰めることによってのみ、根本的な治癒が可能になると私は信じている。


付言しておくけど人によっては自らの規則を社会でより善く生きることに利用することもできるだろうけど、私の場合は後悔しないため、または社会的によりよく生きたいために、このような自らの規則があるわけではない。思考するための踏み台にしかすぎないのだ。そして、そのような規則を創りあげることで、何はともあれ進むべき方向がみえる希望と絶望を求めることがようやくできるのだ。規則がなければ、行動することもできなければ、希望を持つことも絶望することもできないのだから。それは前回の話につながるところだと思うので参照してほしい(私の思う人間)。誰でも、本当に追い詰められ絶望を感じたときに明晰な思考を発揮するように思う。


絶望している理由すらわからない絶望を放置すれば、それは快楽によって忘却され何もわからないままだろう。そして、いつしか、規則があることすら忘却し、それすらも忘却して生きているという自信が持てないまま死んでいく...私はこれがとにかく嫌なのだ。内向的な人間が自らの内向性を突き詰めず、虚偽で埋め合わせていたらこうなることは必至である。

最後にまとめると、①まず反社会的行動を行う積極性をもつこと(思考でももちろんよいが、表現したほうが批判されるので最初は行動から始めたほうがいい)②そして、既存の規則から脱すること③内省し続けること④そのことによって自らの規則を作り出すこと

①から④を繰り返すことが理想である。ときには「逃避」してもよい。

整備された道と大地を具体的に表すとこんな感じだと思う