精神的クライシス

精神的クライシス

 
 
語呂がよいのでこんな題名にしてしまった。
精神的クライシスという言葉を思いついて白湯を飲みながら一人で笑うくらいには陽気だよ。
…疲れているね。
 
ここのところあまりよろしくない。
三週間ほど自室と神社を往復するだけの日々を過ごしている。
ずっと充実していたけれど、今日は書くこともままならない。
 
そういうことで宙に浮いた思考は手の届きやすい、そして身近な社会的な不安へと腰をおろし、私は調子が悪いというわけだ。
 
そして案の定、私は社会で生きていけないだろうと思った。
 
以下散逸な思考
 
社会的に力があれば別としても私は人を選り好みするわがままな人間でこんなことが通用するのは大学時代だけであろう。
実際、嫌だと思えば大学に行かなければいいだけの話なのだから。
 
人を選り好みする人間は嫌われる。
けれど、どういうわけか私が不快に感じるであろうことを言っても「お前はそういうやつだからなあ」という風に笑って済まされ、初対面に「とても考え方が面白いのでよければご一緒しませんか」などと言われる。
そういうわけで、暗い気分であったが、これを書いているうちに少しの自惚れが私を幸福にした。
 
…けれど、こういう出来事が私をさらに生きにくくするのだ。
私に近づく新奇な者は少数であって私を嫌いな人間のほうが多いのだ。
私は少数を愛するけれども多数には憎まれ、そして憎んでいる。
私の連絡先は家族を含めて14人であり、それだけの世界で完結している。
 
考えてみれば、選り好みをしているのだから嫌いな人間なんてほとんど見えなくていないのだ。
平気で連絡先を消し、興味のない素振りを見せるという横暴が大学時代には許される。
 
 
…そんな私が取り繕って社会に出るのだ。
お笑い種でしかない。
全くもって馬鹿げていて、こんな取り繕いが長く続くはずがない。
 
取り繕うことができるのは社会に囚われない自分がいるからであって、取り繕うことでここにいる自分が色鮮やかに際立ち、思考も映えるだろうと活気付くこともある。
一方で、今まさに感じているこの苦痛が後の幸福のための付随的なものでしかないのかという近視眼的、けれど綺麗に完結した思考によって希死念慮に囚われることもある。
 
今は後者であって、長期的に見た幸福になるための不幸に、不幸としての価値などなく、不幸は幸に華を添えるものでしかない。そして、価値という言葉が出てきてしまうように、この不幸は私の不幸として真に捉えておらず、代替可能なものとして扱っているのだと思っている。
 
反吐が出る。不幸は嘘なのか?楽になるための供え物か?…そんなことなら耐えずに自殺してやる!
 
 
死にたいという者を前にして、「後で楽になるから今を耐えろ!」などと口が裂けても言えないだろう。
私はこんな台詞を吐く。
「苦しくて死ぬのは当たり前だから、つまらないからやめろ」と。
当たり前なことは馬鹿らしい。
矛盾こそ動物と人間を隔てるものだろう!?
…だから生きろとそう励ますに違いない。
これ以外に言えることはないし、かける言葉もない。
 
後悔して死ぬ。死にたくないのに死ぬ。そういう矛盾を抱えて私が自死するときは一体何を思うのだろう。とても人間らしいことを誇って死ぬのだろうか。…わからない。
 
私はとても怖い。
いつもは先を考えず今を生きようと努めていることなしに今を生きているけれど、書くことがままならない今は未来を見ている。
未来に囚われた目が見る「今」は逃避であるように思われて、未来を見ること強制する。
 
これが「健全たる観念病」なのだろうか。
…きっとそうなのだろう。
考えるのは怖いことだ。
行動してみれば大したことないこともたくさんあるというのに。
 
陳腐なことを言った。
書く気にならず思考もままならない微睡みの中、これを記す。
また書けないときここに来よう。
おやすみ。