私に対する私のための〈私〉の言葉 一

彼らは地べたに這い蹲ることにしか能がない。だからこそ、そこから翔くことを現実逃避だと彼らは批難するのだ。しかし、それは全てを俯瞰するための準備に過ぎない。人間的な生を生きるための。

私は〈私〉を見つけた。誰にも批判されない夢の場所。精神外の事柄にかんして私はまだ思い込みたくない。失うことの怖れがどうしてもあるのだと思う。私は失うものを何一つ持っていない。ただ、このように思い込んでいても消えることで、はじめてその大切さを知る。

思い込みで人は幸せになれる。ただ、思い込みにはたくさんの時間がかかるのだから、批判に目を覚まさぬよう隠れた場所で。そして、思い込むその何かは、この夢の根源を知ったうえで、選び取る必要がある。

大多数の人間は何を思い込んでいるのかわかってない上に、思い込んでいることを忘却し、忘却していることすらも忘却しているから、よくわからない幸せ、よくわからない悲しみを感じる。

抽象化によって、善悪観念は、全てただある一面でしかないということに気づく。その一面にこだわりを持つこと自体烏滸がましい。それでも、世の善悪観念に素直に従おう。私の善悪観念とそうずれてはいまい。この自らが望む制約が精神の自由をもたらさんことを。

善悪について論じる人間は何様のつもりだ!?この世の代弁者か?善悪観念の中に居ながらして、他者に善悪を語るなど滑稽にもほどがある。自明であると思われることを語る人間も同様。全て一面に過ぎず、移ろいゆくにもかかわらずレッテル貼りに勤しむ人間はさぞかし綺麗だろうよ。

私が真理を掴んだとき、それは錯覚に過ぎないか知的好奇心が衰えたことを意味するだろう。たとえ、生み出したものが何の役にも立たず、誰の関心も惹かなかったとしても、私は哲学的思考のおかげで生きることができ、その果てに死ぬことができる…これは間違いなく幸福である。

「悩みは、言葉にした瞬間、小さくなる」という広告を見て、思ったのだけれど、悩みという漠然とした感情を言語によって適当に掬い取ることで、その部分には陽が当たり、掬い取れない部分は陰に隠れてしまうので、その分小さくなるように見えるのだろう。

よく馬鹿な人ほど幸せだなんて言うけれど、認識できない陰に隠れた部分が大きいから、陽が当たる部分が小さく、それが馬鹿な人の悩みの大きさだから幸せを感じるのだと思う。

「悩み」そのものの形を維持したまま取り出すなんて不可能だ。どこか必ず欠けて陰に隠れる。だけど、私はそれを最小限にすることによって思考の糧としたいと思う。そして、どうでもいい悩みのときは思考を放棄することによって、すべてを陰に葬り去ればいい。

卑下する人間は慰めてもらえるだろうという認識のもと、卑下していることが多い。そして、卑下すること自体に満足している。一方、誇示する人間は慰めてもらえる人はいないことを知っている。なので、誇示する人間は基本すごいなという目で見ている。

他者に素直じゃないというとき、そこには、自分の思い通りしたいという思惑がある。だけど、素直とは、そのようなことを理解しても、なお反省し、反論をしないで受け止める勇気なのだろう。そして、相手の言うことに納得したりしなかったりする理由を心の中できちんと考えることが大切なのだと思う。

一人は一人ではない。他者の存在を意識しなければ、私は孤独になれない。一人でいるとき、とても楽しく、自由を感じる。私はいつでも〈私〉に帰る場所がある。ただ、それはいつか堕落してしまうだろう。それを恐れる。

無数の一点が此処。此処で私にとって正しいと思われるものを正しいとみなすことによって無数は維持される。全ては思い込みの世界だと決めつけて思い込むのではなく、誤謬を感じないほどに思い込むのだ。此処を欠けたものだと見なした場合、無数は無数ではなくなる。無数と此処は相補的な関係にある。

他者は薪なのだ。そして、心から信頼できる他者はきっと火を鎮めようとする水なのだ。私は火を見続けることができればそれで満足だが、火を消されるのもまた一興。
火を熾す薪が欲しい。それは好奇心、向上心から、そう思うのだろう。

いつからか、私は一人であっても孤独を感じなくなってしまった。孤独になりたいがために人とかかわりたいと思う。私は他者の存在を全く意識していない。意識するためには人から認められなければならない。孤独を感じなければ、思考が進まない。そのために人から認められよう。

楽しかったり、嬉しかったりするとき、精神は外に向いていて内省することは難しいし、するべきではないと思う。 だけど、苦しいときにも精神を外に向けようとしていたら、いつ自分自身を見てあげることができるのか!?

内向的な人間代表として、内向的な人間に告ぐ。「外交的な人間に惹かれるな。内向的な人間が外向性を取り繕ったとしてもそれは虚偽に過ぎないことに君は薄々気づいているはずなんだ。内向的な人間は内向性を突き詰めることによってのみ本当の幸せを得るのだ!」と。

自由には制約が不可欠。だけど、強制的な制約の下の自由は自由ではない。ここでは選択可能性が一方的に奪われてしまっている。本当の自由とは制約を選びとり、自ら課すことによって、ようやく感じ取れるものだ。『 自由への自縄自縛 』

忘却の忘却は突き詰めることによって可能になる。 たとえば、内向的な人間が生きにくいと感じるとき、その内向性を突き詰めることによってのみ根本的な治癒が可能となる。

思うに、私の一連のこのような考えが身体を動かさなくしている。全てはなるようになる的な考えが。そしてならなかったらならないでまた考えるきっかけになるというようなよくわからない前向きな考えが。 これを踏まえると、よく行動する人間というのは精神が貧しいという一面があるのかもしれない。

いつまでも精神と身体のギャップによる思考に留まるのは如何なものか。本来このことは苦しいはずなのに、私は自らの精神の中で価値を創造するため、あまり苦しいとは思わなくなった。まあ、それはそれで精神がそこそこ豊かである証なのでちょっと誇れることではあるのだけれど...。

心だけはいつも反社会的である。実際、身体が伴わないことに苦悩しているけど、精神と身体のギャップが「思考」を生み出すのだろう。なんでも自分が思うように事が進んでいたらきっとこうやって考えることなんてなかったはずだ。

真理は思考し続けるという運動によってのみ示され、思考することを諦めることによってようやく掴めるものであるという結論に落ち着いてる。掴める真理というのは人によって崩れやすかったり、崩れにくかったりする。その崩れやすさの程度が示される真理との距離を表しているのではないだろうか。

人間の本質とは何か。可能性だろうか。私たちは選択に対して開かれた存在である。そして、選択する際には一方を抑え込むことで(完全に消し去るわけではない)、もう一方を成り立たせようとする。だからこそ、選択した際に私たちは後悔することがある...後悔は人間の本質であるような気がするな。

私は今まで自分で自分の首を締めていたようなところがあった。逃避だと認めたものは徹底的に排除してた。毎日がつまらなかったけど、自分を痛めることが目的になっていたからやめることができなかった。

虚偽世界が私の根本に少なからずあると考えた途端少し楽になった。生まれたときから「虚偽」を教え込まれ、それを基準に私は物事を判断していることを否定することはできない。虚偽を徹底的に嫌うその態度こそ、思考停止だったのだと気付いた。

虚無と虚偽を私はうまく取り扱わなければならない。彼らは私を引き込もうとする。虚無に支配されれば絶望し、虚偽に支配されれば堕落する。そして、動かなければ彼らに引き裂かれる。

人々の思考を奪うものは常識にはじまって、宗教、科学、愛情、金...数えきれない。これらは合理化する虚偽世界。日常に「ずれ」を感じ、それを突き詰める者にとってこの世界は生きづらい。虚偽で埋めることはできるのだけど、私はどうしても「私」から離れることはしたくない。

辛いことがあると、誰かに話を聞いてもらおうとする人間。酒、煙草、女などの快楽に耽る人間。暴力に訴えかける人間。これらの人間の行動はほとんど動物的反応だと思っている。そこに、辛いことを直視し、孤独に思考するという選択肢がない限りにおいて。